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大阪地方裁判所 平成3年(ワ)5977号 判決

原告

榊原靖

右訴訟代理人弁護士

矢倉昌子

清金愼治

被告

桝田宏信

右訴訟代理人弁護士

河田毅

被告

住友海上火災保険株式会社

右代表者代表取締役

小野田隆

右訴訟代理人弁護士

児玉康夫

主文

一  被告桝田宏信は、原告に対し、第二項記載の金員の限度で被告住友海上火災保険株式会社と連帯して、金二三五〇万三九五三円及びこれに対する平成元年一一月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告住友海上火災保険株式会社は、原告に対し、被告桝田宏信と連帯して、金一三八三万円及びこれに対する平成二年一二月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、原告に生じた費用の一〇分の七を原告の負担とし、原告に生じた費用の一〇分の二と被告桝田宏信に生じた費用を同被告の負担とし、原告に生じた費用の一〇分の一と被告住友海上火災保険株式会社に生じた費用を同被告の負担とする。

五  この判決第一、二項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

一  被告桝田宏信は、原告に対し、第二項記載の金員の限度で被告住友海上火災保険株式会社と連帯して、金一億二六七七万八七四三円及びこれに対する平成元年一一月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告住友海上火災保険株式会社は、原告に対し、被告桝田宏信と連帯して、金二五〇〇万円及びこれに対する平成二年一二月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、普通乗用自動車との衝突事故により負傷した足踏み式自転車の運転者が、右自動車の運転者かつ保有者である被告桝田宏信(以下「被告桝田」という。)に対して自賠法三条、民法七〇九条に基づき損害賠償を、同車の自賠責保険会社である被告住友海上火災保険株式会社(以下「被告保険会社」という。)に対して自賠法一六条一項に基づき損害賠償額の支払を、それぞれ請求した事案である。

一  争いのない事実

1  交通事故の発生(以下「本件事故」という。)

(一) 日時 平成元年一一月一六日午後一一時四五分ころ

(二) 場所 大阪府守口市高瀬町二丁目一番地先の、信号機により交通整理の行われていない交差点(以下「本件交差点」という。)

(三) 加害車 被告桝田運転の普通乗用自動車(大阪五四ろ四七九一号)

(四) 被害車 原告運転の足踏み式自転車

(五) 態様 加害車が、本件交差点を南東から北へ右折しようとした際、北から南へ直進してきた被害車と衝突し、原告を路上に転倒させた。

2  被告桝田の責任原因

(一) 自賠法三条

被告桝田は、本件事故当時、加害車を保有していた。

(二) 民法七〇九条

被告桝田には、本件交差点直前で一時停止した上、右方の安全を確認すべき注意義務があったのに、これを怠った過失がある。

3  被告保険会社の責任原因(自賠法一六条一項)

(一) 被告保険会社は、本件事故当時、加害車につき被告桝田との間で自賠責保険契約(証明書番号EA一七九四二一―三)を締結していた。

(二) 原告は、平成二年一二月五日以前に、被告保険会社に対し、自賠法一六条一項に基づく損害賠償額の支払を請求した。

4  損害の填補

原告は、本件事故に基づく損害の填補として、計五六四万七四四六円の支払を受けた(なお、この他に、本件事故に関する金員支払仮処分命令に基づき四一七万六〇〇〇円が原告に仮に支払われていることは当事者間に争いがないが、本案請求の判断においては、右の仮の履行状態は斟酌しない。)。

二  争点

1  本件事故と原告の両下肢麻痺等との相当因果関係の有無

原告は、本件事故により、胸腰部を打僕して脊髄(胸髄下部)損傷の傷害を負った結果、平成二年六月三〇日、両下肢麻痺、両下肢痺れ・筋力低下、起立歩行不可の後遺障害(その程度は自賠法施行令別表後遺障害等級表の第一級八号相当。なお、以下の等級はすべて同表による。)を残して症状固定し、労働能力を完全に喪失したと主張する。

これに対し、被告らは、原告主張の各障害の原因は、脊髄損傷ではなく、歩行障害をきたす先天性奇形体質やヒステリー・賠償神経症等の心因的要因であって、本件事故と相当因果関係がないと主張する。

2  身体的素因・心因的要因の寄与に基づく減額

被告らは、原告は歩行障害をきたす先天性奇形体質や心筋梗塞の既往症を有していたし、又、本件事故前後の入院状況からみてヒステリー・賠償神経症等の心因的要因が障害の拡大に寄与したとして、これらの身体的素因・心因的要因の寄与による減額がなされるべきと主張する。

これに対し、原告は、被告ら主張の身体的素因・心因的要因をすべて否定するとともに、仮に、何らかの素因が存在し、損害の発生・拡大に寄与しているとしても、加害者は、結果のすべてについて責任を負うべきであると主張する。

3  過失相殺

被告らは、原告には、飲酒酩酊の上、無灯火で自転車を運転していた過失があるから、大幅な過失相殺をすべきと主張する。

これに対し、原告は、被害者が無灯火であっても、現場は照明で明るかったから過失相殺事由とはならないし、原告の飲酒は、晩酌程度で酩酊する程ではなく、事故発生に何ら影響していないので過失相殺すべきでないと主張する。

4  損害額

第三  争点に対する判断

一  過失相殺(争点3)

1  前記争いのない事実に、証拠(甲二、一九、乙一、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

本件交差点は、別紙図面のとおり、南北方向に通じる道路(北行き一方通行で最高速度は終日時速三〇キロメートルに規制されている。)に南東方向から交差道路が交わる、信号機のない市街地内の交差点であり、路面は平坦でアスファルト舗装され、本件事故当時は乾燥しており、周囲は照明で明るく、交通は閑散であった。加害車・被害車ともに前方の見通しは良かったが、加害車からの左右の見通し及び被害車からの左方の見通しは良くなかった。

被告桝田は、加害車を運転して本件交差点を南東から北へ右折するべく交差道路の別紙図面①地点附近に至った際、前方に一時停止標識があるのを認め、右折合図を出すとともに減速して進行し、停止線上の同②地点で右方を見たが、一時停止することなく時速約一五キロメートルで同③地点に至った時、右前方の地点に北から南進して来る被害車を発見して危険を感じ、急ブレーキをかけたが間に合わず、同④地点で加害車前部を被害車前輪左側に衝突させて同⑤地点に停止した。

原告は、帰宅途中、最寄りの駅前で食事をするとともに酒三、四合を飲み、酩酊状態(後記のとおり、原告は、本件事故後に救急搬入された病院で診察が困難な程に酩酊していた。)で無灯火の被害車を運転して本件交差点を北から南へ直進するべく南北道路の東寄りを同地点附近まで走行してきた時、左前方から加害車が接近して来るのを発見して危険を感じ、ハンドルを右へ切ったが、同地点で前記のとおり加害車と衝突し、同地点に加害車とともに転倒した。

2  右認定の事実によれば、被告桝田には、本件交差点を右折するに際し、一時停止の標識があり、左右の見通しも悪かったのであるから、一時停止の上で左右の安全を確認すべき注意義務があったのにこれを怠り、一時停止することなく、右方への安全を十分確認しないまま時速約一五キロメートルで進行した過失があり、原告には、相当に飲酒酩酊して自転車を運転し、本件交差点の左方の見通しが悪かったのに、その安全を確認することなく、漫然と進行した過失がある。そして、両者の過失割合は、被告桝田が八割、原告が二割と認めるのが相当である。

二  損害

1  相当因果関係(争点1)及び身体的素因・心因的要因の寄与(争点2)

(一) 本件事故以前の原告の生活歴及び既往症

証拠(甲一九、二三、二八の1、2、二九の1ないし3、乙六の1、2の(1)、(2)、七の1ないし4、八、一四、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

原告(昭和一八年一月一日生)は、中学を卒業して三、四年工員として働いた後、数年間塗装工の見習いをして技術を覚え、以後、主として塗装工として各所の現場で働いていた。昭和三九年に結婚して二児をもうけたが同四九年に離婚し、その後は、同六〇年一一月から同六三年五月ころまで越谷昌枝と同居したほかは、一人暮らしで、一日に、煙草を二〇本、酒を三、四合程度嗜んでいた。

原告は、三六歳ころに転落して意識を消失し、いわゆるむちうち症状をきたしたことが二回あったほか、昭和六一年五月一日、激しい後頭部痛、後頸部痛を訴えたため、鶴見緑地病院に救急入院し、翌二日、大阪厚生年金病院脳外科に転入院して、各種検査の結果、第一頸椎形成不全と第二第三頸椎分離不全が判明し、クリッペル・ファイル症候群と診断されるとともに、C2・C3頸神経が圧迫されることによる後頭神経痛と診断された。同月七日と九日の二回にわたり、後頭部圧痛点にブロック注射(一パーセントのキシロカイン六ミリリットルと水溶性プレドニン一〇ミリグラム)がされた。九日の注射後、意識レベルが低下して朦朧状態となり、四肢運動機能の低下と発声困難が認められ、キシロカインショックとして点滴の上経過観察された。徐々に回復したが、数時間後に、両下肢が痺れる感じで力が入りにくく、かろうじて立位になり二、三歩歩行するにも随分力が入る状態で、歩行困難が認められ、二日後、ふらつきはあるものの独歩可能となった。同月二二日、大後頭神経切除術が施行されたが、同月二三日及び二九日には、トイレ等への歩行後に気分不良となり、車椅子でベッドに戻された。手術後も、切除部より下位の神経支配領域の後頭部痛が残ったが、同年六月一日退院し、同月二六日、同病院から鶴見緑地病院に対し、低周波治療等の理学療法が依頼された。その後、同病院に、同年七月一八日から同年九月七日までの間及び同年一〇月二六日(同日、突然意識を消失し、痙攣発作が出現した。)から同年一一月二二日までの間の二回、入院し(入院記録が廃棄済みのため、この間の症状や治療の詳細は不明である。)、その後昭和六三年八月二三日まで通院した。同病院の原告の外来診療録には、昭和六一年一一月二五日欄に、左片側の不全麻痺があって左足をひきずって歩き、握力は右二八キログラム・左二四キログラムであり、膝蓋腱反射は左がやや亢進かとの記載、同年一二月二日欄に、左片麻痺、左足ひきずるとの記載、同月九日欄に、左片麻痺、握力右二五キログラム・左一〇キログラムとの記載、同六三年二月一〇日欄に、体・頭がスッキリしない、考え事をすると頭が痛い、足が上に上がらないとの各記載があり、右通院期間中はリハビリテーションが継続されていた。

原告は、昭和六一年五月から同六三年九月末まで仕事はせず、生活保護を受けていたが、同年一〇月ころから就労を再開し、本件事故当時は塗装工のほか建設基礎作業の手伝いをしていた。

(二) 本件事故後の原告の症状経過

証拠(甲三ないし一〇、一四、二四、二六、乙一、二の1の(1)、(2)、二の2ないし4、三の1ないし7、四、五の1ないし5、一二、一三、一五、証人吉川光男、同今岡キクエ、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

原告は、本件事故直後の平成元年一一月一七日午前〇時五分、福徳医学会病院に救急搬入された。アルコール臭が強く、飲酒のため診察困難な状態であったが、頭部打僕(頭蓋内合併症の疑い。但し、後日解消)、胸腹部打僕(内臓損傷の疑い。但し、後日解消)、腰椎捻挫、右下腹部打僕、左右上腕肘前腕打僕と診断された。一人暮らしのため病院で経過観察されたいとの警察からの要請もあり、同三時三〇分、同病院外科に入院となった。右時点では、吐き気、頭部打僕痛、右肘痛、腰痛等を訴えたが、瞳孔は正円同大で対光反射も正常であり、四肢麻痺はなく、下肢も軽く動かす状態と観察された。排尿は、同五時ころ、自ら尿器に少量排したが、同一〇時ころ、少量ずつしか出ずに尿意を訴え、軽度の下腹部緊満が認められたので、バルンカテーテルの挿入により排尿させた。排便は、同七時ころ、訴えにより便器をあてがうも出なかった。同一〇時ころ、右側腹部から下腹部の圧迫時痛を訴え(以後しばしば筋性防御とブルンベルグ徴候が検査されているが、いずれも陽性ではなく、腸雑音も良好であった。)、顔面に冷や汗をかき、苦痛の表情で「身体に触らないでくれ。」と言い、腹部痛や右肘から手先の痛みを強く訴え、ぴりぴりした痺れが少しあった。同一〇時三〇分ころから腹部レントゲン、頭部・腹部CT等各種の検査がされたが明確な異常は認められなかった。同日午後二時ころには、アルコール臭が消えて意識清明となったが、腰痛があり体動困難で、両下肢は、痺れ感はないものの、わずかしか屈曲できない状態であった。午後九時ころも右下腹部及び腰の痛みが持続し、立位になるにも支えを必要とする状態であった。翌一八日以降も、腰痛に加えて歩行困難を訴えたが、下肢に痺れはなく、同月二〇日以降は自ら排尿し、同月二一日には全身状態良好と観察され、同月二五日には歩行器を使用すれば良好に歩行可能となり、同月二七日ころには冗談を言える程元気となり、間歇的に腰痛を訴えてボルタレン(坐薬・内服)を処方されたものの、歩行困難以外の愁訴はほぼみられなくなった。以後、ベッド上には不在がちとなり、車椅子を使用して、トイレに行くほか、院内各所に移動したりホールで長時間談笑することがしばしばとなった。同年一二月五日ころ施行された腰椎MRI検査では、腰椎全体にわたり椎間板の膨隆が認められ、第四―第五腰椎間・第五腰椎―第一仙椎間に軽度の変形性脊椎症程度の所見が認められたのみであった。同月八日、腰痛強度で歩行困難な原告の症状に対応する所見を見い出し得なかった同病院の紹介により、原告精査のため関西労災病院整形外科を外来受診した。検査の結果、両下肢とも六〇度まで挙上可能で、長母趾伸屈筋、前脛骨筋、腓腹筋の筋力低下はほとんどなく、両足背に軽い知覚低下が認められたが、両下肢筋肉の緊張は割合良好で、大腿・下腿周囲径とも左右差はなかったため、同科医師も歩行困難の原因を発見できず、腰部の異常だけでは理解し難いとして、脊髄損傷や外傷性ヒステリー・外傷性神経症等の可能性を判断するために筋電図やミエログラフィー検査が望ましいと回答した。原告は、このころから歩行器での歩行練習を開始したが、少しでも動くと暑くて汗が出る、肩が痛くて左前胸の痛みが耐えがたい等と訴え、同月一四、五日にはそれまでなかった頸部痛を激しく訴えた。以後、時々起床困難と観察されたほか症状に変化はなく、同月一八日、福徳医学会病院の医師は原告の歩行困難を演技的なものと考えるに至り、翌一九日ころ撮影された頭部・頸髄・胸髄MRI検査によっても歩行障害の原因は特定されなかったこと、同月二二日には、第五腰椎、第一仙椎を叩くと飛び上がること、両手を持って歩かせるとなんとか歩けることから、同医師は精神科領域に原因があるとの所見を深めた。結局、同病院では歩行困難の原因を特定できないまま、原告は、平成二年一月九日、関西医大病院整形外科宛の紹介状を得て、福徳医学会病院を退院(入院日数五四日)した。

原告は、同日、知り合いがいることから守口市所在の吉川病院を受診し、本人の希望により入院した。入院当初の異常所見としては、腱反射(アキレス腱反射及び大腿四頭筋の膝蓋反射)の亢進、両下肢の筋力低下(股関節の屈曲、膝関節の伸展ともに筋力段階表の第二段階程度)及び胸髄第一一髄節以下の領域の軽度の知覚鈍麻(背部には知覚過敏域もあった。)が認められた(筋萎縮はなく、画像診断では異常は発見されなかった。)。主訴は、腰から両下肢にかけての痛みや痺れ(この訴えは同病院入院中一貫して持続した。)であり、同病院の吉川医師は、本件事故により、原告の胸髄下部ないし腰髄の皮質脊髄路の一部に、画像診断では補捉できない程度の微細な出血・鬱血・腫脹等が生じて神経細胞が障害されたのではないかと考え、「腰部打僕、脊髄損傷による両下肢不全麻痺(痙性麻痺)」との診断の下、ステロイド剤を含む点滴を数日間行うとともに歩行リハビリテーションを朝夕二回、二か月間強力に行うとの治療方針を立てた。同時に、同下肢不全麻痺に対応する明らかな他覚的所見のない希少な症例であって、詐病やヒステリー等の心因的な原因による可能性もあることから、将来訴訟になる可能性が高いとの印象を強くし、看護婦に原告の動静を注視させるとともに、その歩行状態をビデオ撮影により記録するという異例の措置を採った。同月下旬ころから、歩行速度はゆっくりであるものの、歩行の仕方は入院当初よりも正常に近づき、歩幅も大きくなるなど歩行能力の改善を示したが、同年三月中旬ころからはリハビリテーション(歩行訓練及びベッド上での牽引による両下肢運動)の効果は挙がらず停滞気味となり、又、原告自身も腰痛や両下肢の痺れ等を訴えてリハビリテーションに消極的となり、痛みに対する硬膜外ブロックが頻繁に施された。右のとおり、回復が捗々しくないため、吉川病院の紹介により、同年四月二日、聖友病院で脊髄のMRI検査が行われたが、脊髄の圧迫所見は認められず、四月中旬ころには両下肢の運動機能が低下し、同年一月ころよりも知覚障害、腰痛、下肢痛、下肢の痺れが強まり、筋萎縮の進行が認められた(同年一月二六日時点での大腿周径は右四一センチメートル・左四二センチメートル、下腿周径は右三三センチメートル、左33.5センチメートルであったが、同年四月二四日時点での大腿周径は右37.1センチメートル、左38.5センチメートル、下腿周径は右31.8センチメートル、左31.2センチメートルとなった。)。そこで、吉川医師は、原告の両下肢麻痺の原因精査と適切な治療を期待して、脊髄損傷に関して著名な上級医療機関である星ケ丘厚生年金病院に原告を紹介した。原告は、同年五月七日に同病院整形外科を外来受診した後、同年五月一四日、吉川病院を退院(入院日数一二六日)として、同日、星ケ丘厚生年金病院整形外科に入院した。

星ケ丘厚生年金病院整形外科の桜井隆医師は、聖友病院に胸髄MRI検査を依頼するとともに、ミエログラフィ、EEG等の検査を行い、泌尿器科・神経科等の各専門医にも診察を依頼して、原告の両下肢麻痺の原因を精査した。泌尿器科においては、胸髄第一一髄節以下の知覚鈍麻を認めたが、膀胱障害は認めなかった。神経科では、原告の症状に不自然な点が多いとして心理科にテストを依頼し、同科で実施されたロールシャッハテストの所見によれば、原告は、大変防衛的で警戒心が強く、複雑な図版に対しては反応を拒否し、自主性や独創性に欠け、潜在的な知的能力も期待できるものではなく、自己に対する自信のなさが感じられ、又、衝動的・攻撃的な面を持ちながら困難な場面において抑圧の防衛機制を用いる様子が窺われ、内省に乏しく人格的にも未熟な面がみられることから、結論として、原告には顕示的態度や易刺激的反応はさほど窺われないものの、ヒステリーの要素はかなりみられるという回答がなされた。そして、神経科の松村医師が同年六月二九日に行った垂れ足検査(車椅子の背もたれを垂直にして被験者を坐らせ、その両膝を水平面から約四五度上方に向けた状態にしておき、突然予告なく下肢の支えを取り去ることにより、被験者の作為を排除して下肢の筋力の程度をみる検査)でも、原告は床に足を打ちつけることはなかった等のことから、神経科からは両下肢不全麻痺の原因はヒステリーでよいとの回答がなされた。そこで、整形外科の桜井医師は、同年七月一六日、これらの回答に加え、前記の各画像診断では脊髄に下肢麻痺の原因となる病変が認められなかったこと、両下肢の筋力自体は徒手筋力テストで二ないし三のレベルにあること、排尿排便障害がなく、下肢の筋萎縮が軽度であること等の所見をも総合した結果、画像診断で捉えられない脊髄損傷の可能性は完全には否定できないが、心因反応、ヒステリーによる下肢不全麻痺である可能性が高いとの見解に達した。同医師が同年一八日作成した自賠責保険後遺障害診断書には、自覚症状欄に、両下肢筋力低下、歩行起立不可との記載、他覚症状及び検査結果等の欄に、両下肢不全麻痺、両下肢しびれ、筋力低下、起立・歩行不可、胸腰椎XP・ミエログラフィ、CTスキャン、MRI、筋電図等異常所見認めずとの記載、泌尿器の障害等の欄に、異常なしとの記載、下肢の関節可動域の欄に、他動の場合、股関節の屈曲が左右とも一〇〇度、膝関節の屈曲が左右とも一二〇度、足関節の背屈・底屈が左右とも四五度、自動の場合、右各関節機能の全部が〇度との記載があり、症状固定日及び今後の見通しについては何ら記載のないままとなっている(大阪府は、同年六月二九日、原告に両下肢機能全廃を障害内容とする身体障害者手帳を交付したが、原告から直接請求(被害者請求)を受けた自賠責保険は、同年一二月六日、MRI等の画像診断あるいは神経学的検査所見上等からは異常が認められず、責任病巣である損傷部位の特定あるいは他覚的症状所見が不明と認められ、障害程度の判定が困難であるとの理由により、損害賠償額の支払を拒否した。)。

原告は、同年六月三〇日、星ケ丘厚生年金病院を退院(入院日数四八日)して姉宅に身を寄せ、同病院の紹介により、同年七月二〇日からリハビリテーションのため蒼生病院に通院していたが、同年八月七日午前六時ころ、急性心筋梗塞を発症し、心停止後状態で同病院内科に救急入院し、心室粗動・多発性心室性期外収縮等が認められて絶対安静の入院治療を受けた(この間の看護記録には、詳細は不明ながら、原告の両下肢の自動運動や屈曲につき可能・不能双方の観察が記載されている。)。原告は同月二二日、医師の意見に反して同病院を退院したものの、通院治療を続けた(この間の同年一〇月二六日の診療録には、膝蓋腱反射・アキレス腱反射が両側とも普通との記載の後に「意識下では両下肢よく動いている」との記載がある。)結果、次第に回復し、同年一二月ころからリハビリテーションを再開し、泉北病院での下肢麻痺の原因精査を希望していたが、平成三年一月二八日、再び吉川病院へ入院した。

吉川病院では、胸髄・腰髄MRIをはじめ各種検査の結果によっても特に異常を発見できず(脊髄の空洞化も認められなかった。)、腱反射が片足で残っているという疑問点はあるものの、両下肢の筋萎縮が著明(同年二月二二日時点での大腿周径は右34.5センチメートル、左三五センチメートル、下腿周径は左右とも27.5センチメートル)であり、触覚以外の知覚が臍から下の領域で相当障害されていること等から、同年三月四日ころ、脊髄損傷による弛緩性完全運動麻痺で回復の見込みなしと診断した。原告は、重度の心筋梗塞の再発防止のために安静を必要とすることもあり、下肢のリハビリテーションはほとんど行わないまま、同年一〇月一三日退院した。

原告は、平成六年六月二〇日に至り、両下肢麻痺の原因精査を希望して北野病院神経内科を受診した。同科の日下医師は、診察所見として、①両下肢の弛緩性完全運動麻痺、両側大腿四頭筋反射軽度亢進、両側アキレス腱反射消失、両側足底反射中立、②胸髄一一髄筋以下の知覚障害を認め、右所見に加えて発症が急速であることをも考慮して、胸髄における脊髄梗塞ないし外傷に伴う脊髄損傷を疑い、胸髄MRI検査をした結果、髄外には特に病変は認めなかったが、胸椎一〇―一一椎体レベルの胸髄内に細長いT2強調信号を認め、脊髄梗塞ないし脊髄損傷に対応する可能性があると判断した。

(三) 脊髄損傷の有無及びその原因

①原告は、前記のとおり、本件事故直後の平成元年一一月一七日午前一〇時ころ、排尿困難を訴えて軽度の下腹部緊満が認められたほか、顔面に冷や汗をかき、苦痛の表情で「身体に触らないでくれ。」と言い、腰部痛及び右肘から手先の痛みを強く訴え、ぴりぴりした痺れが少し認められたが、これらは脊髄損傷の初期症状と相当に類似性があること、②原告は、前記のとおり、本件事故当時、就労して自活できる程度の収入を得ており、本件事故当日も仕事帰りで自転車に乗っていたことからすれば、原告の両下肢の運動機能に全く異常がなかったかは別として、平成元年一一日一七日(事故翌日)午後二時以降ほぼ一貫して認められる前記程度の歩行困難はなかったと考えられ(なお、同日午前三時三〇分ころに、四肢麻痺なく下肢も軽く動かす状態と観察されているが、これは、入院直後の、しかも原告が診察困難な程に酩酊していたという慌ただしい状況下であったことからすれば、原告をベッド上に横臥させた状態での一応の観察であっと推認され、その正確性には疑問がある。)、本件事故を機に、自力歩行が相当に困難な状態が発現したと考えられること、③原告には胸髄一一髄節以下の知覚障害がほぼ一貫して認められており(平成二年一月九日ころの吉川病院入院時、同年五月ころの星ケ丘厚生年金病院泌尿器科診察時、翌年一月ころの吉川病院再入院中、平成六年六月ころの北野病院診察時)、これは、胸椎一〇―一一椎体レベルの胸髄内に異常を認めた北野病院での胸髄MRI検査結果と符合すること(乙九、一〇)、④右の胸髄MRI検査結果自体、当該部位に外傷による胸髄損傷が生じている可能性を窺わせる他覚的所見であること、⑤原告の症状には脊髄ショック等脊髄損傷の典型的な諸徴候が明確には認められないものの、脊髄損傷の部位・程度によって右徴候の有無・程度には相当広範囲な差異があり、画像診断で捉えられない脊髄損傷も存在すること(甲一五、一六、乙九、一〇)、右の①ないし⑤を総合考慮すれば、本件事故による外力が、原告の脊髄(胸椎一〇―一一椎体レベルの胸髄内)に損傷等の影響を考え、両下肢麻痺の一因となったことが認められ、本件事故と原告の両下肢麻痺との間に相当因果関係を認めることができる。

(四) 相当因果関係の認められる後遺障害の内容(症状固定時期)

前記(二)の原告の症状経過(特にMRIで脊髄空洞化など神経障害の器質的進行を窺わせる所見が認められなかったこと)に照らせば、原告が、平成二年八月七日、心筋梗塞を発症(これが本件事故と相当因果関係のある後遺障害であることを認めるに足りる証拠はない。)した時点以降は、心筋梗塞の再発防止のためリハビリテーションを行い難い状況となり、両下肢を運動させないことにより、筋萎縮が著しく進行して痙性完全麻痺に至ったと認められ、又、前記の両下肢麻痺の程度の推移に照らしても、右の心筋梗塞発症以降の両下肢麻痺の悪化については本件事故との相当因果関係を認めることはできず、原告主張の平成二年六月三〇日をもって本件事故による後遺障害が症状固定したとみるのが相当である。

そして、右症状固定時の後遺障害の内容・程度について検討するに、前記の自賠責保険後遺障害診断書がほぼ同時期の診断結果であるところ、①同診断書における下肢関節可動域の測定結果は、前記のとおり他動の場合はすべて正常範囲であるのに、自動の場合は全く動かせない結果となっていること、②重度の心筋梗塞により蒼生病院入院中の平成二年八月には、前記のとおり詳細は不明ながらも両下肢の自動運動や屈曲が可能な時があったとみられること、③同年六月二九日の前記垂れ足検査では、床に足を打ちつけなかったことからすれば、症状固定時の両下肢麻痺の程度は、右後遺障害診断書の記載から窺われる程度よりやや軽い程度であったと推認するのが相当であり、星ケ丘厚生年金病院での他の所見に照らし、両下肢の筋力自体は徒手筋力テストで二ないし三のレベルで、両下肢に軽度の筋萎縮が認められる程度の、自力歩行が困難な不全麻痺(後遺障害の程度は、五級二号(神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの)に該当する。)であったと認めるのが相当である。

(五) 身体的素因の有無及び寄与

前記のとおり、原告は、クリッペル・ファイル症候群と診断されているものの、弁論の全趣旨によれば、同症候群は下肢麻痺のみをきたす可能性は低く、又、原告の上肢には特に機能障害がないと認められることから、同症候群が原告の前記後遺障害の発生・拡大に寄与したと認めることはできない。

しかし、前記のとおり、①原告は、三六歳ころ、転落により意識を消失し、いわゆるむちうち症状をきたした、二回の外傷経験があること、②前記北野病院での胸髄MRI検査で認められた異常所見は、脊髄梗塞に対応する可能性もあること、③鶴見緑地病院への前記通院期間中に、左片側の不全麻痺のため左足をひきずって歩行していたり(跛行)、足が上がらないと訴え(下肢筋の脱力感)、リハビリテーションを受けていたこと(なお、大阪厚生年金病院入院中の昭和六一年五月九日ころの下肢症状はキシロカインショックに基づく可能性が高いので右の限りではない。)、④昭和六三年一〇月ころから仕事をするようになったとはいえ、本件事故までの原告の健康状態や就労の実態には不明確な面がある(原告は、体調が回復したのは平成元年になってからと供述している。)ことからすれば、原告には、本件事故以前から、右③の歩行障害をきたす、微細な脊髄血管障害等の何らかの軽度な脊髄疾患が生じており、これが、本件事故による衝撃と相まって前記の脊髄損傷発生の一要因となったと推認することができる。

(六) 心因的要因の寄与

①原告は、前記のとおり、本件事故後歩行困難となって間もない時期に、しばしば病院内のホール等へ車椅子で出かけて談笑しており、憂慮すべき重大な事態に直面した際に、通常示される、緊張・困惑・焦燥・恐怖・悲嘆・怒りなどの感情はほとんど示さなかったと推認できること、②前記のとおり、福徳医学会病院及び星ケ丘厚生年金病院の各医師が、下肢麻痺の原因が原告の詐病やヒステリー等の心因的な要因にあると判断した事実からも、原告が歩行困難な状態に特に抵抗を示すことなく極めて早期からほぼ全面的に順応していたと窺われること、③原告は、福徳医学会病院入院中から足を動かすことも立つことも出来なかったと供述するが、これは前記の症状経過・治療内容と明らかに矛盾するし、又、本件事故以後は客観的に足が動いているとしても自らはそれが理解できない、わからないと強調する原告の供述内容や供述態度は、心理テストの前記結果と極めて良く符合していること、右の①ないし③に鑑みれば、原告は、本件事故以後、医師が指示するリハビリテーションに応ずる以外に、自ら積極的に下肢の運動機能の回復に努めたとは考え難く、むしろ、前記症状固定に至るまで自ら下肢を動かそうとしたことはほとんどなかったと推認でき、下肢筋肉運動の絶対量の少なさが、症状固定以前においても、ある程度の筋萎縮と筋力低下をもたらし、歩行障害の程度を高めたと考えられるから、両下肢麻痺の加重に原告の心因的要因が寄与したと認めるのが相当である。

(七) 減額割合

前記後遺障害の発生・拡大に寄与した右(五)(六)の各要因の性質、内容、寄与の程度等を総合考慮すれば、当事者間における損害の公平な分担を図る見地から、後記認定の損害額の四割を減額するのが相当である。

2  損害額(争点4、原告主張額は別紙計算書の原告主張額欄記載のとおり。)

(一) 治療費 二七七万〇六八四円

甲一三によれば、原告が、吉川病院に対し、平成二年五月分の入院清算金として五万五五九〇円を支払ったことが認められ、弁論の全趣旨によれば、前記症状固定までのその余の治療費として二七一万五〇九四円を要したことが認められるから、本件事故による治療費は二七七万〇六八四円となる。

(二) 付添看護費 一七〇万三二二五円

(1) 平成元年一一月一七日から同二年五月一四日までの付添看護費

証拠(甲五ないし七)及び弁論の全趣旨によれば、原告が、右の期間付添看護を要し、その費用が一七〇万三二二五円であったことが認められる。

(2) 症状固定後の付添看護費 〇円

前記後遺障害の内容・程度に弁論の全趣旨を総合すれば、原告の後遺障害は両下肢機能に限られており、上半身には何らの障害もなく、自力での排尿排便や車椅子への乗り降りが可能で、車椅子による移動も自由に出来たと認められ、症状固定後、付添看護を要するのは、車椅子での外出時のみであったと考えられる。しかし、症状固定後、現実には、原告が心筋梗塞を発症して重篤な状態になったため、心筋梗塞を発症しなかった場合の原告の外出頻度や時間等、右付添看護費の算定基礎となる具体的資料がない(甲二一及び二二は、心筋梗塞を発症した状況下での資料である。)から、右の付添看護費は認められない。

(三) 入院雑費 二九万三八〇〇円

原告は、前記のとおり、平成元年一一月一七日から同二年六月三〇日まで二二六日間入院し、弁論の全趣旨によれば、その間、雑費として日額一三〇〇円を要したことが認められる。

1,300×226=293,800

(四) 装具代 八万五七七六円

甲二〇及び弁論の全趣旨によれば、原告が、装具代として車椅子購入費六万六〇〇〇円及びコルセット代一万九七七六円の計八万五七七六円を要したことが認められる。

(五) 休業損害 二一二万八八五八円

前記認定(二1(一))の事実に、証拠(甲一一、一二、二三、二八の1、2、二九の1ないし3、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告(本件事故時満四六歳)は、一八、九歳ころから四三歳時まで塗装工として稼動していたが、前記疾病による入通院により昭和六一年五月から同六三年九月ころまで稼動せず、その後、塗装工を中心に就労を再開し、同年一二月以降、笹田嘉寿男から仕事の斡旋を受けて塗装工として稼動するほか、平成元年七月一八日以降は建設基礎工事現場で鳶職人などの手元手伝いとしても稼動し、一人暮らしで自活できる程度の収入を得ていたことが認められる。

右によれば、原告は、本件事故当時、少なくとも平成元年賃金センサス第三巻第三表の木工塗装工・企業規模一〇ないし九九人・四五ないし四九歳男子労働者の年間平均賃金三四三万八二〇〇円程度の収入を得ていた蓋然性を認めることができ、本件事故により、事故翌日の平成元年一一月一七日から同二年六月三〇日までの二二六日間完全に就労不能となったと認めるのが相当であるから、休業損害は次のとおりとなる。

3,438,200÷365×226=2,128,858

(円未満切捨て)

なお、原告は、本件事故当時、月四〇万九〇〇〇円の収入を得ていたので、右額を基礎とすべき旨主張するところ、甲一一、一二、一九、二三、二八の1、2、二九の1ないし3によれば、原告は、平成元年八月から一〇月までの三か月間に、塗装工及び鳶職人の手元手伝いとして稼動し、合計一二二万七〇〇〇円の収入を得たことが認められる。しかしながら、原告が右の月四〇万九〇〇〇円程度を取得するようになったのは同年七月一八日以降であって、未だ安定したものとはいえないこと、原告には前記既往症があり、本件事故後には心筋梗塞を発症していることを考慮すると、右の実収入をもって、休業損害を算定することは相当ではない。

(六) 後遺障害による逸失利益三六一七万三九八九円

弁論の全趣旨によれば、原告は、六七歳まで就労可能であったと認められるところ、前記認定の後遺障害の内容・程度、原告の年齢・職業、事故前後の生活状況・稼動状況等諸般の事情を総合考慮すれば、原告は、平成二年六月三〇日の症状固定時(満四七歳時)から六七歳時までの二〇年間にわたり、その労働能力を八〇パーセント喪失したと認められる。

そして、原告の収入は、前記のとおり、年額三四三万八二〇〇円と認められるから、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して右二〇年間の逸失利益の本件事故時における現価を計算すれば、次のとおりとなる。

3,438,200×0.8×(14.1038−0.9523)=36,173,989

(円未満切捨て。)

(七) 慰謝料 一三二〇万円

前記入通院期間、症状及び後遺障害の内容等本件に顕れた一切の事情を総合して勘案すると、入通院慰謝料は一七〇万円、後遺障害慰謝料は一一五〇万円をもって相当と認める。

(八) 交通費 七五〇円

弁論の全趣旨によれば、原告が交通費七五〇円を要したことが認められる。

(九) 右(一)ないし(八)の各損害を合計すると、五六三五万七〇八二円となる。

三  よって、前記二2(九)の損害合計額から前記一の過失相殺(二割減額)及び身体的素因及び心因的要因の寄与に基づく減額(四割)を行い、前記第二の一4の損害の填補額(五六四万七四四六円)を控除すると、別紙計算書のとおり、残額は二一四〇万三九五三円となる。

四  弁護士費用

本件事案の内容等一切の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用相当の損害額は、二一〇万円と認めるのが相当である。

五  以上によれば、原告の被告桝田に対する請求は、二三五〇万三九五三円及びこれに対する本件不法行為の日である平成元年一一月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、又、被告保険会社に対する請求は、平成三年一月二二日政令第四号による改正前の自賠法施行令別表第五級の保険金額である一三八三万円及びこれに対する本件損害賠償額の支払請求の日の翌日以後である平成二年一二月六日(乙一五及び弁論の全趣旨)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、各支払を求める限度で理由がある。

(裁判長裁判官下方元子 裁判官水野有子 裁判官村川浩史)

別紙交通事故現場見取図〈省略〉

別紙計算書〈省略〉

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